森鴎外「ヰタ・セクスアリス」

「白い上に黒く、はっきり書いて見たら、自分が自分でわかるだろう。」

哲学を職業とする主人公の金井君は、前人の足跡を踏むような事はしたくない、と思いながら、何か書いて見たいとずっと考えていた。そんななか、「一体性欲というものが人の生涯にどんな順序で発現して来て、人の生涯にどれだけ関係しているかということを徴すべき文献は甚だ少ない」ことを不思議に思った金井君は、自分の性欲の歴史を書いてみようと思い立つ。
「実はおれもまだ自分の性欲が、どう萌芽してどう発展したか、つくづく考えてみたことがない。」、なので書いてみよう、というわけで、いちばん最初に引用した一文は、だから独立せられるものでなく、こういった前後と共に大事で、「黒く、はっきり書」こうとしていることはここでははっきり「性欲」のことなのだが、私はこの一文だけが少し、浮き上がって見えた。

「自分が」「自分で」「わかる」ような書き方が出来る人間は、多分、多くないだろうと思うからだ。

「書く」ことで浮き彫りになる自分が、あると考える人も、多いとは思われない。
でも金井君はそれが出来る人間で、むしろそんなの当たり前だからこそ、さらっとしか言っていないが、これはそれを出来得る人にしか言えない、大変な言葉のような気がする。私は、なかなか出来ていないので、金井君*1が、とても羨ましい。
書くという正しい姿勢は、そのまま書こうとするものへの正しい姿勢でなければならない、と思う。いつだって対象には全身全霊で向き合うべきなんだ。そうしたらきっと、過不足ない言葉で文章を紡げるだろう。それが一番だ。でも本当に、難しい。

それと、「白い上に黒く、はっきり書いて」ということは、原稿用紙に万年筆で書く、ということだと思うけど、単純に、それも大事なことなんだろうと思う。
多くの作家が言葉を書く、つまり「字」を書くということはずっと、白い紙の上に手書きするということだったのだ。今だって沢山いると思うけど。それは、おそらく、パソコンの画面にも、パソコンのキーをタイプすることにも無いだろう力が、宿っている気がする。

少し前までの作家が、手書きのみで作品を書いていたということを、しみじみ意識したくなった。いやするべきなんだと思う。気付きました。

ヰタ・セクスアリス (新潮文庫)

ヰタ・セクスアリス (新潮文庫)

六歳からを書き出す前と、あと十五歳から終わりまでが特に面白かった。語り手が「もの書き」である作品というのはいつも興味深い。

*1:この作品は自伝的要素が強いので、金井君というのはほとんど鴎外なんだけど。だから、まあ、すごくて当たり前なんだけど。