いまの私の知らないところへ

私はいつでも、変わりたい、と思っている。
どんなに小さなことでもいいから、知らないことを知って、分からないことに気がついて、意外なものをどんどん発見して、つねに、少しでも新しくなった目で、世界を見てみたい。

知らないことがまだまだたくさんあるということは、いまの私が感じられるものは、本来よりもだいぶ少ないってことなんだろう。おかげで想像出来ていないこともいっぱいあるだろう。いま偉そうに語れないことなんて、たくさんたくさんあるだろう。私の好きなあのひとや、あのひとにとっては、もしかしたらすでに当たり前であることも多いかもしれないのに。
だとすれば、悔しい。ついでに情けない。というか、なんて勿体ない。

私ももっと感じたい。興味を持ちたい。疑問を抱きたい。分かりたい。震えたい。
世界はきっともっと面白くなるはずだ。もっと面白くなった先は、たぶんもっともっと面白いはずだ。その途中が辛いものであっても、それも込みで覚悟しよう。

つねにこの先が面白いだろうなんて保証は、確かには無いけども、でも私の人生は、19歳くらいから確実に面白くなった。「分かる」「気がつく」「疑う」「考える」「想像しようとする」ことや、「知る楽しみ」をちゃんと覚え始めた大学二年のころからだった。
それ以前はよく分からなかった。

そのせいなのかどうか、私は物心ついたころから高校生くらいまで、生きることは全然面白くなかった。
世界はいまより謎だったし、それゆえとてもこわかった。いつもどこかびくびくして、どうしてこんなことしなきゃいけないのかと、何に対しても思っていた。勉強することはもちろん、食べることも、遊ぶことも、人と関わることも、好きになることも、世界にそう「させられ」ているのか、「させられてしまう」のか、とにかく意図が不明で、不安だった。「自分」で「そうしている」という感覚は、とても少なかったように思う。

暗い子ども時代を過ごしたわけではないのだけど(環境自体が不幸だったわけではなかった。それよりは、絶望の仕方も分からなかったというか)、
ほとんどのことが「面白い」ものではなかった。「楽しい」時間はあったかもしれないけども、つねに物足りなかった。でも何も知らない子どもにとってはそれだけがすべてだった。
それでなくてもつらい「思春期」は、さらにつらかった。疑問に思うことも感じることもそれなりにたくさんあったはずだけども、いかんせん「考え」られない。言葉をうまく扱えない。世界は狭く、ついでに痛かった。

ぐるぐると内で渦巻くものたちを、言葉によって「それそのまま」取り出せなくて、苦しかったのをよく覚えている*1
それでも高三くらいでやっと勉強の楽しみを覚えたころ、少しずつ面白くなってきた。
新しい世界が広がってきたのだ。
その快感と高揚は、だんだんと大きくなりながら、22歳のいまになるまで、ずっと続いている。大学二年のときに受けていた授業が、とくに大きな契機となって、さらに加速度は増した。

「こんなものかな」「あんなものかな」と勝手に決め込んでいた世界は、あっという間に後方へ消えてゆく。震えがくるほどの、興奮だ。まあ興奮したところで「理解した」とは限らないのがつらいところであるけども、それすら、嬉しい。*2
ここ一年くらいでそういうことがさらに増え、学問することから学ぶことと、人との関わりのなかから学ぶことは、そこここでリンクしていることを感じるようになった。
そしたら今度は(世界に)興奮するより、(自分に)絶望することのほうが多くなってきた。

あまりに自分が毎日新しいことに気がつくので、「私はよっぽど何にも分かっていないから、それだから、こんなにも毎日発見することがあるのじゃないだろうか…」と思ったときは、本当にがっくりした。どれだけ元がなっていないのかと。それにみんながとっくに分かっているかもしれないことを、私はその瞬間まで気づかないで生きていたっていうことに気づくのだから。
でもそんなの当たり前のことだろう、なんせ私だしな、というふうにそのときはそうやってすぐに立ち直った。
毎日マシになれればいいじゃないか。基本的にのんきなたちではある。

そんな、くるくる生まれ変わるような毎日には、辛くても、不安でも、苦しくても、寂しくても、悲しくても、切なくても、虚しさだけは、運ばれてこない。
私にとってはこれがいちばん大事だ。なんといっても虚しさは危険だ。少なくとも今までの感じからすると、私は虚しさでいちばん死にたくなるからだ。だけど確実に、わざわざ自分から死んでる場合ではないのだ。まだまだ面白くなるのだから。
死への誘惑や興味が、ずっと強かった高校生のころは、人生は虚しいものだと思っていた。それでいて毎日、どうしようどうしようと思っていた。どうにかしたかった。

いまなら分かる、と思う。「世界は自分から『面白がる』しかない」。
「生」は肯定したところから、何かが始まってくれるのだろう。私が「生」の否定をしたところで、安易なニヒリズムを得てしまうだけだった。ナンセンス。
「面白がる」ために私が必要としたのは、「新しい目」だった。いつでも変わりたい、というそれはつまりつねに新鮮な驚きを手に入れたいということだ。煮詰まったら、落ち込んだら、頭の中も新鮮な空気で換気しないといけない。
決して安直に死など考えないように。世界の面白さを侮らないように、見失わないように。丁寧に生活できるように。

そうか。私はいつも「変わりたい」と思うことで、そうやって、祈っているのかもしれない。これからも生きていけますように。

*1:「それそのまま」で取り出せると考えることがそもそも間違いだ、ということも、今なら分かる。だからこそ面白いのだということも

*2:いや、つらいけど。頭の悪さを痛感するから