太宰治「正義と微笑」

高校三年生のとき、「勉強って、自分のためにするんだなあ」とようやく気付いた私でしたが、考えてみればそんなこと当たり前であるはずなのに、でも気付くまでは、気付けないのだから、本当に不思議だ。だんだん、あらゆることが、そうでしかないことが分かってきた、と思う。これも気付いてみれば当たり前のことなのだけど。
気付くことが出来ていないときは、なぜ苦しいのかどころか、もしかしかしたら自分が苦しんでいることさえ、ちゃんと分からないものかもしれない。中学生や、高校生のあのころ感じていたものは今になってこそ、よく分かる。…でも単にそれは、言語化出来るようになったというだけなのかな…。いや、言葉に出来るということしか、だってそれしか、ないんじゃないの。うーん…つらつら書いてたらうまく言えないとこに来てしまった。
作品の内容とは直接関係ないことから書いてしまいましたが、大学受験を控えていたあのころの私の支えになっていたのが太宰治の「正義と微笑」でした。主人公の芹川進が書く日記によってのみ展開されていく物語で、17歳の芹川くん*1の書くその日記には、芹川くんが書いたそれがあればもう私は自分で日記書かなくてもいいような気さえするくらいに、感情移入して読んでいました。
特に十代後半くらいのひとに、響くところはもちろん作品全体であると思いますが、高校生だった私に特に分かり易く、有難い言葉であったのが以下の引用です。芹川くんの恩師の黒田先生が、学校を辞めることにした時に生徒たちにした挨拶から。

「…(略)。もう君たちとは逢えねえかも知れないけど、お互いに、これから、うんと勉強しよう。勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かねばならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチャアというのは、公式や単語をたくさん暗記している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!これだけだ、俺の言いたいのは。(略)」

当時も感動したつもりだったけど、今の方がよく分かるなあ。カルチベートされるというのはどういうことであるのかとか。
しかしこんなふうに、「お互いに、うんと勉強しよう」と言ってくれる先生がいるのは、嬉しいよなあ。いまでもよく読みます。↓この本に入ってます。

パンドラの匣 (新潮文庫)

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*1:勝手にくん付け