表現、書くということ

変な授業を受けた。間違いなく履修する。「小説を書く人間」がいっぱいいる教室。妙な空気だ。普通の人間は明らかに居づらいに違いない。
先生が「人数が多い。3分の2くらい減ってほしい」と言って講義概要を説明し出すと、面白いようにどんどん学生が教室を出て行くので笑った。そうさ!減ればいいのさ!
大分人数は減ったがそれでも多い。この授業は学生の書いた文章を皆で批評し合うというもの。結構みんな「書く人」らしい。でも書かなくても単位くれるらしいので私は批評側にいるつもりです。

先生が「君にとって書くって何だ」とランダムに学生を指した。
「息をすることです」とか「生きることです」などと答えた人がいたけど、私はそういうのは違うんじゃないかと思う。いやその人は確かに、書かないと生きていけないとか言うのかもしれないけど、そういう風に書かれた文章というのは正しいのかどうか、面白いのかどうかと考えてしまうのだ。私には「書くということ、言葉を使うこと」はとてもこわいことで、とても息をするようになんて成せることじゃない。いつも苦しい。違和感を感じる。そもそも「書く」なんて行為は自然ではない。

「生きる為に書く」とか言っても、実際人間は書いたりなんてしなくても生きていけるはずだ。食べ物が無かったら死んじゃうけど、書かないからって死ぬわけない。それを忘れたらいけないと思う。どうして「書く」のかと常に自分に問い続けなければいけないんじゃないか。自分探し、ストレス解消、自己満足、大いに結構、ただ本人が自分の文章をそれと自覚出来ているかどうか。別に自慰行為のような文章の存在価値をも否定したいのではなくて(覗いて楽しいオナニーもあるでしょう。好きな子のとかね)、それは他人に読んでもらう文章なのか考えてもらいたい。だいたい恥ずかしくないのかしら。

「書くこと」「言ってしまうこと」は本当にこわい。「書いてしまう」と違ってしまうかもしれないし、どう書くかと散々悩んでも、書いてしまえば「どう書かれたか」だけになってしまうし、読み手がいれば「読まれた」という結果が生まれてしまう。言葉を使うことはとてもこわいことだ。それこそ何も書けなくなるくらいに。何も言えなくなるくらいに。書かないことを選びたい。黙ることを選びたい。それでも私は書きたくて、きっと何か言いたい。苦しくてもやるしかないのだ。